殘唐五代史演義傳第四十二回 五竜、王彦章を追い詰めて死なせる (五龍逼死王彥章)
要約
同台の郭彦威と河西の石敬瑭が人馬を率いて唐に降り、前部となって船頭あがりを破りたいと申し出た。潞王は金帛を賜って二人を都指揮に加封し、史建唐は、これで五竜がそろったから彦章を追い詰めれば事は成ると言った。
続いて降ったのは山東鄆州東平阿歯の高行周、年十三で、父の高思継を彦章に殺された仇を報じたいと願い、潞州王はただちに先鋒に任じた。
翌朝、行方の知れなかった建唐が戻り、昨夜西北に将星が墜ちるのを見た、彦章の死は旦夕だと述べた。九十里先の狗家疃の人頭峪は入れるが出られぬ伏兵の地で、七十二座の連珠陣を布き兵にはわざと負けよと命じて誘い込み、五方五帝の陣を布けば死に追い込めると説き、潞王は妙計だと喜んだ。建唐は五将に計を授けて五竜と号した。晋王の世子の李存勖は後の唐の荘宗、養子の李嗣源は後の明宗、石敬塘は後の晋の高宗、沙陀の知遠は後の漢の高祖、郭彦威は後の周の太祖である。五将は指示書を受けて狗家疃へ赴き、行周が先に挑みに出た。
尚譲が斉克譲・景祥とともに出て小僧が陣に当たれるかと嘲ったが、三合とせず行周の一槍で馬下に落ち、斉克譲は虎掌の金錘で頭を砕かれ、逃げる景祥も一錘で叩き落とされた。彦章が自ら出ると行周は三合で逃げ、彦章は計と察して追わなかったが、李存孝に叩きつけられても死ななかった賊めと罵られて憤然と陣を降り、狗家疃まで突き進んで四方八面から囲まれた。
建唐が名将四百五十員を率いて斬り出し、まる一日の激戦で彦章は名将十六員を突き落としたが、猛将四員は行周に討たれた。力尽きた彦章は西の陣で潞州王李杰に塞がれ、中陣で行周の金錘を受けて血を吐き人頭峪へ逃げ込んだ。地面には人の頭が絡み合って生えており、彦章は一歩ごとに転んで夜明けまで転び続け、勇を振るえなくなった。
人頭峪を出たところで砲声が鳴り、五色の号旗に五隊が現れた。東は甲乙の木、南は丙丁の火、西は庚辛の金、北は壬癸の水、中央は戊己の土に配し、表に八卦を分け裏に九宮に合する陣であった。彦章は、天が我を絶つ、今日は計にかかったと嘆じ、東南から郭彦威、正南から劉知遠、正西から石敬瑭、正北から李嗣源、中央から李存勖が斬りかかった。五位の皇帝は五様の馬に乗り托天叉・長矛・安漢刀・画桿戟・金蘸斧を用い、五条の赤須の竜が一頭の白額の虎を攻めるようであった。彦章は力尽きて天を仰いで叫び、剣を抜いて自刎した。麗泉は、雞宝山で二秋戦って彦章が自刎し大梁は愁いに沈んだ、建唐の妙算は梁兵を破った第一の手柄だと詠じた。
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