殘唐五代史演義傳第四十六回 石敬瑭、反旗を翻して三関を落とす (石敬瑭反下三關)
要約
廃帝は張后の誣告を真に受けて怒り、永寧公主を弁明も許さず冷宮に送って一月のあいだ監禁した。公主は泣き訴えて飲食もままならず姿はやつれ果て、もと馮丞相の侍女で李玉英という宮娥ただ一人が付き添って慰めた。公主は、河東を鎮める夫の石駙馬はこの責め苦を知るまい、誰かが伝えてくれれば人馬を率いて長安に至りあの賤しい女を寸断して恨みを雪いでくれように、と嘆き、梁の間に飛んできた一双の燕に夫を恋う思いを託した詩を吟じた。
李玉英はその詩を書き写して馮道に届け、馮道は驚いて、朝に臨む日を待って奏し必ず迎え戻すと公主に言づけた。翌日、清明の佳節に廃帝が群臣を集めて夜に宴していると、西北に斗ほどの大星が現れて天を横切り東南へ飛び去り、また一星が東南を照らして今にも墜ちんばかりであった。馮道は、今年は罡星が洛陽にあって国に利あらず太白星が正午を過ぎても消えぬ、虚実も確かめず公主を冷宮に苦しめたが駙馬石敬瑭は三関を守って雄兵猛将が多く、仇を報いに来れば誰も敵しえぬ、この星はその身の上に応じていると奏し、公主を放免して酒の上の過ちと仰せられ金帛を賜わるのが社稷を安んずる計だと説いた。廃帝は金石の論と称して従い、公主は放免されて木樨宮へ帰った。
公主はなお恨みが消えず、三関へ知らせる者を求めると小卒秦渉が進み出た。公主は血書を託し、秦渉は河東三関に至った。関では石駙馬が中軍に座し、左に四十二員の勇将、右に三十六員の官僚が列していた。血書には、正月の皇兄の寿誕に晋陽への帰還を奏したが異図を疑われて後宮に戻され、張后の讒言で冷宮に四十余日幽閉され死地に置かれようとしたが馮道の力添えで禍を免れた、早く良き策を立ててほしい、遅ければ陽台の雲となろう、とあった。敬瑭は足を踏み鳴らして怒り、昏君と賤婦を殺して恥を雪ぐと誓った。劉知遠は、形勝の地に拠り士馬精強であるから兵を興せば帝業も成しえると勧め、桑維翰は、主上は庶孽の身で明宗を伐ったので人心が付かず、契丹主は明宗と兄弟の約を結んでいるから節を屈して事えれば朝に呼べば夕に至ると説いた。敬瑭は桑維翰に表を書かせて契丹に称臣し父の礼をもって事えたいと請い、事が成れば盧竜一道と雁門関以北の諸州を割いて与えると約した。劉知遠は、父として事え土地を許すのは行き過ぎで後日中国の大患となると諫めたが従われず、後の先儒は礼楽衣冠の地を夷狄に売り渡した庸臣を怒って歯噛みする詩を詠んだ。
契丹主は喜んで慕容韜を元帥とし兵五万を助けに遣わした。敬瑭は廃帝が先に公主を害するのを恐れ、趙瑩の議に従って桑維翰の推した趙州の宇文涣を密書とともに東京へ遣わした。涣は木樨宮で公主に、兵十万を起こして京城へ攻め上るゆえ今宵のうちに脱身せよと伝えた。公主は宮人韓月娥に事を見抜かれたうえで計を授けられ、翌朝、冷宮で立てた観音の醮一壇の願を果たしたいと奏して許され、彩車で宮人侍女を従えて城を出、宇文涣と落ち合い五百の軍士に守られて洛陽を離れた。逃亡が報じられたのは三日後で、廃帝は慌てて文武を集め、馮道は三関から密通があったに違いなく早晩禍乱が生じるゆえ急ぎ追うべきだと言った。卓吾子は、三関の重任を委ねておきながら小さな一件で公主を冷宮に囚えたことを責め、禍いは城外からでなく宮中から起こったのだと評した。
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