清史紀事本末燕京、賊に陥る(燕京陥賊)

要約

明の思宗崇禎十七年正月朔、帝が早く朝に臨むと鐘鼓を聞かぬ群臣は遅れて至り、中門を通れず文武が入れ違って礼を整えた。乾方の大風は暴兵が城を破る兆とされ、乾清宮の裏に狐の足跡があり、鳳陽の地震で皇陵付近の家屋と人民の倒壊は甚だしく、星が月中に入るのは国破れ君亡ぶ兆とされた。

流賊の李自成が西安で王を称した。米脂の人で幼名は黄来児、崇禎二年に楊肇基の営に投じたが、金県で県令と参将の王国を殺して反し、高迎祥に従って闖将と号した。七年、陳奇瑜に車箱峡で囲まれると顧君恩の策で賄して招撫を請い、険を出るや再び叛き、七州県を陥れて十余年横行した。国号を順、永昌と改元し、名を自晟と改め、暦を造り偽官を置き科目を設け、牛金星の草した檄には「君はそれほど暗愚なのではないが、孤立して覆い蔽われることが実に多い」とあった。

李明睿は親征を請い、密かに南遷のみが急を緩めると説き、帝は久しくその意があるが諸臣が従わぬと嘆じた。曾応遴は紳士富者に財を出させよと請うたが返答はなかった。路振飛は金声桓らを徐州・泗州・清口に配して数万の精鋭を得た。李建泰は私財で兵を募ると称して督師し、帝は郊外で餞して「先生のこのたびの出征は、朕が自ら行くのと同じである」と言い、湯若望を随行させたが、建泰は涿州で家が破られたと聞いて気沮み、畿内に滞った。南京でも地震があった。

張献忠は八大王と号し、武昌で西王と称し大順と建元し、荊州から蜀に入って夔州を陥れた。秦良玉の十三隘を守る請けを陳士奇が用いず、賊は巫山の梅子坡から長駆し、良玉は敗れ、献忠は西川を併せた。二月朔、帝は三月望日を限るという悖逆な賊の書を得て、朝廷は色を失った。自成は汾州・陽城・懐慶・太原を陥れ、王永吉らの寧遠を撤し呉三桂を入衛させる請けも行われず、帝は罪己の詔を下した。周遇吉は代州で十余日戦って賊一万余を殺し、退いて寧武を守った。内官が諸鎮の監軍に遣わされ張縉彦の諫めは容れられず、大雪に凍死する者が出た。謝嘉福は巡撫の徐標を殺して邱茂華と降り、彰徳も陥ちた。

天下に勤王を徴した。李邦華は太子と諸王を旧都に置き天下の望をつなげと請い、会議は決せず、帝は国君は社稷に死ぬと言ったが、左懋第に南中の舟師を調べさせ、魏藻徳・方貢岳を天津・済寧に遣わすなど、南遷の下地は密旨で許していた。三月朔、昌平に兵変があり、京師は戒厳し、張鑻は太子の南京監国を請うた。寧武が陥ちると、遇吉は奮撃し賊営を襲って二十里退かせたが、捕らえられて罵って死に、妻の劉氏は婦女を率いて屋根から射て焼け死に、胡婦二十人は強弩で数百人を斃して火に赴き、王孕懋も自殺した。自成は戦死七万を数えて陝西に還ろうとしたが、姜瓖・王承胤の降表が届いて東へ長駆した。

帝は百官を召したが奏対は常談ばかりで、南遷を勧める者に「諸卿は平日もっぱら門戸を営み、今日は死守するのみ」と怒った。餉は出どころがなく、賊が金で誘って士卒は離散した。曹化淳が忠賢がいたならここまで至らなかったと言うと、帝は誤って信じて忠賢の屍を葬らせた。唐通と杜之秩が降って居庸が陥ち、昌平も陥ちて李守鑅が死に、賊は十二陵を焼いた。李国楨の三万は沙河の砲声に潰え、賊は京師を囲んだ。帝は御案に、文武は人ごとに殺すべきだが百姓は殺すなと書いた。内侍が守城を専らにし、遊騎だと報じて備えず、賀珍らは力戦して死に、外城は化淳が献じて陥ちた。帝は太子と定王・永王を周奎・田弘遇の邸に送らせ、すでに縊れた皇后のほか袁妃と妃嬪数人を斬り、両公主を斬りつけた。夜明けがた内城も陥ち、万寿山で王承恩と縊れた。遺詔には諸臣が国を誤った、冠冕を去り賊の切り裂くに任せ、百姓を傷つけるなとあった。

年表

明思宗崇禎十七年(1644年)の一年、正月の朝班の乱れ・大風・鳳陽の地震といった凶兆から説き起こし、李自成が西安で王を称して国号を順、永昌と改元し、東進して北京を陥れるまでを月日を追って記す。李明睿・李邦華・張鑻らの南遷や太子監国の献策は諸臣の議がまとまらず実行されず、大学士李建泰の督師も涿州で沮喪して進まなかった。張献忠は夔州を陥れて西川を併せ、李自成は汾州・太原・彰徳を経て寧武関で周遇吉の死守に遭うが、姜瓖・王承胤の降表を得て長駆する。唐通・杜之秩が居庸を献じ、京営の兵は新橋で潰え、曹化淳が外城を献じて内城も陥ち、帝は王承恩とともに万寿山で縊れた。

年表(1件)

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  • 第1.0版(2026-09-27) 初版
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