清史紀事本末同治の中興(同治中興)
要約
咸豊十一年七月、熱河で病篤い文宗は載垣・端華・粛順ら八人に顧命を授け、載淳を皇太子、八人を賛襄政務王大臣として翌日崩じ、太子が即位し明年を祺祥元年とした。皇后鈕祜禄氏と生母那拉氏を皇太后とした。八月、五星が張・翼に聚まり、欽天監は中興の兆しと占った。曽国荃は九年拠られた安慶を克復し池州・桐城・宿松も回復した。九月、母后・聖母の称を那拉后が嫌い慈安・慈禧の徽号を奉った。両宮は間道から先に還り東太后・西太后と称された。
十月、恭親王奕訢に議政王を授け、桂良・文祥らを軍機大臣とした。御史董元淳が垂簾と親王輔政を請うと、載垣らは遺詔の賛襄と母后臨朝を禁ずる家法で論駁し、杜瀚は嫂叔・居喪を理由に恭王の召見を阻んだが、奕訢は太后に会って誅する謀を定めた。太后が先に京へ入ると賈楨らが垂簾を、勝保が親王輔政を請うた。載垣・端華に自尽を賜い、粛順を市に棄て、景寿・穆蔭ら五人を革職し、党与も発遣した。帝は太和殿で即位し祺祥を同治元年と改め、政務は両宮が裁決するが諭旨には朕の字を書けと諭した。曽国藩に江蘇など四省の軍務を統轄させ、十一月、両宮は養心殿で聴政した。
同治元年、麟魁と曽国藩を協弁大学士とし、外洋の船砲を購わせ山東の畝捐を行った。台湾の戴万生らが彰化を拠し徐宗幹に剿討させ、長江水師提督を蕪湖に新設した。京師の大疫、広東の風災があり、畿輔の教匪・捻軍に堅壁清野を行わせた。翁心存が卒し、下獄中の子翁同書は釈された。彭蘊章も卒した。湘軍を撤し曽国藩の兵権を抑えよと請うて嗤われ、再び用いられなかった。二年、京師に同文館を設立し、曽国藩・李鴻章の請いで蘇松太三属の重い賦額を減じた。
三年、山東の畝捐を停めた。西安将軍多隆阿に祭葬と世職を与え忠勇と諡した。多隆阿は三百余戦で二百余の城砦を落とし陝西の回民を剿し尽くしたが、盩厔で弾に目を傷つけ、なお攻め抜いて薨じた。御史賈鐸が太監への濫賞と庫の緞子の流用の禁止を奏したが、懿旨は無き事と断じた。六月、金陵克復で曽国藩らに侯伯子男と世職を封じ、八月、洪福瑱の生け捕りで沈葆楨らに世爵・世職を与えた。
四年三月、慈禧が寵した太監安得海の讒で恭親王奕訢の議政を止め差使を撤したが、惇親王らの諫めで内廷行走と総理衙門管理に復した。議政の名は戻らなかった。江蘇・浙江の水害で溺死十余万。僧格林沁は捻軍を追い曹州の西で重囲に陥り、夜に突囲したが前駆が戈を反し、酔って戦えず全軍覆没して死に、忠と諡された。十二月、太平天国の残衆が広東に入り、左宗棠が追って嘉応州で殲滅し一等伯に封ぜられた。降った回民を殺し掠奪させた都興阿は議処に交された。安徽南部の大飢饉で人肉一斤が百二十文に至った。
五年、文祥が神機営で畿輔の馬賊を殲し、左宗棠の請いで福建に工場を設け火輪船を造らせ沈葆楨に船政を総管させた。祁寯藻が卒した。曽国藩を排斥し何桂清を救おうとして糾弾された。六年、曽国藩を大学士、駱秉章を協弁大学士とし、旱で庶獄を整理して直言を求めた。同文館に閣部翰林を入れ各国の語学・天文暦算・造船製器を学ばせようとしたが、夷裔を師とすべきでないとの論が伝誦され一人も入館せず、倭仁も管理を辞して落馬を装い、楊廷熙は同文館撤廃を代奏した。イギリスの条約は勢いで脅し取られたものゆえアメリカと結んで助けとし、蒲安臣・志剛・孫家穀を各国へ派した。十二月、東捻蕩平で李鴻章らに世職を賞し、駱秉章が卒し文忠と諡された。
七年、西捻蕩平で李鴻章を協弁大学士に抜擢し、曽国藩を直隷総督、馬新貽を両江総督とし、彭玉麟に長江水師を籌画させた。御史徳泰は園庭修理と戸・畝・村ごとの捐を代進し、奢侈の端を開くとして革職された。八年、席宝田が貴州の苗・教匪を破り鎮遠の二城を克復し、山東巡撫丁宝楨が太監安得海を殺した。得海は奕訢を中傷して以来、朝士が門に奔走し声勢赫々たるものがあり、帝は泥人形の首を斬って小安子を殺すのだと言った。宝楨は帝と密かに謀り、欽差と称し竜衣を着け女楽を連れ南下した得海を泰安で捕らえ、皇太后の命だという大言も顧みずその夜に市に棄て、一党二十余人を誅した。
九年、劉松山が回族の頭目馬五の寨を攻めて陣没した。七月、両江総督馬新貽が閲兵の帰りに張文祥に刺されて卒した。文祥は友の仇を報じたと供したが、取り調べの官は盗賊の残党の仕業と作り変え磔にした。曽国藩を両江総督、李鴻章を直隷総督に転じ、三口通商督弁を廃し直隷総督に帰した。席宝田は台拱庁城、劉士奇は都匀府城を落とした。十年、ベトナムの匪徒曽亜治を剿討させ、浙江の暴風と雹が数万を死傷させた。
十一年正月、大学士・両江総督・一等毅勇侯の曽国藩が卒し、文正と諡された。国藩は侍郎の身で郷兵を治め、征伐は十八行省に及び、中興の功は第一である。軍旅が平らぐと勧農・塩務・練兵まで章程を定めた。和議が成ると海上に雄を争う志を抱き、安慶に内軍械所、上海に械器局を設けて火輪船を模造し、子弟を泰西に遣わすよう奏請した。喪が帰ると百姓は香を焚いて送った。三月、咸豊五年から貴州を蹂躙した張秀眉らを、席宝田の湘軍が懸軍深入して砦数千を破り、宝田の病後に諸将が捕らえ長沙で磔にしたので、宝田に騎都尉の世職を賞した。李宏謨が日ごとの召見を請うと、慈禧太后は春来不調で臨朝せぬのに冒昧だとの厳旨が下った。七月、御史辺宝泉が李鴻章の瑞麦献上を弊とし永定河合竜の保案撤回を請うて嘉納された。九月、左宗棠の瑞麦瑞穀の奏は許されず、地方官の報告に誇るなと戒められた。阿魯特氏を皇后、富察氏を慧妃とした。慈禧の意は慧妃にあったが、慈安が后を重んじ帝も后と答えて冊立した。大婚の費用は千万に上り、慈安にも禁じられなかった。
十二年正月、帝が親政した。貴州・雲南の回民粛清で曽璧光・岑毓英に宮銜と世職を賞した。六月、日本の副島種臣とロシア・アメリカ・イギリス・フランス・オランダの使節が紫光閣で謁見し国書を呈して大婚と親政を賀した。十月、御史沈淮が円明園修復を緩めるよう請うて旨に忤り厳責された。園は乾隆年間に四十景を列ね費億万を数えたが、咸豊十年、阿片の役でイギリス人に焼かれていた。十一年、李光昭が木材を献じて園庭修理を請い、帝が各省で木材を買わせ内外は驚き惑った。帝は両宮の養生のためと言ったが、淮は、仇敵が国内にある今、興修は議すべきでなく、園が成っても両太后は楽しまれますまいと述べ、游百川も諍ったが納れられなかった。粛州回復と回民粛清で左宗棠を協弁大学士に抜擢した。
十三年、広東の闈姓賭博を禁じ、李鴻章にペルーの使臣と会商させた。七月、李光昭を革職し鴻章に審理させた。光昭は欽命を借りて産地で勒索し、五万余元の洋木を三十万両と捏造して報じ、フランス商人との訴訟から露見した。内務府の崇綸らも革職され、光昭は斬監候、円明園の工事は停め三海を修めることとした。恭親王奕訢を郡王に降したが、まもなく賞し戻した。十月、帝が不予となり李鴻藻に章奏の批を代らせた。帝は后阿魯特氏を敬礼したが、慈禧が慧妃を偏愛して后を疎んじ、帝は乾清宮に独り宿り、微行へ導く内侍があって病を招いた。十一月、天花に遇ったとして内外の陳奏を皇太后に呈せと諭した。十二月、帝が崩じた。病篤くなると李鴻藻を召し、載㴻に大統を承けさせようと遺詔を書かせたが、鴻藻は儲秀宮に馳せて草稿を進め、慈禧は怒って叱り出した。崩御は秘され、慈禧は軍機の王大臣を召して誰が大統を承けようかと問い、文錫が溥の字の輩から択べと答えると色を変え、醇親王奕譞の子載湉を承継させると言い、諸臣が応じてから、皇帝はすでに崩御したのだと厲声で言った。嗣皇帝は四歳で即位し、明年を光緒元年として両宮が垂簾聴政した。皇后を嘉順皇后と封じ、載㴻・文錫は罪を得た。大行皇帝に毅と諡し廟号を穆宗として恵陵に葬った。享年十九。
年表
咸豊十一年(1861年)の文宗の崩御から同治十三年(1874年)の穆宗の崩御まで、およそ十四年間の政局を編年で追う。熱河で顧命を受けた載垣・端華・粛順らが両宮皇太后と恭親王奕訢に討たれ、慈安・慈禧の垂簾聴政が始まり、年号は祺祥から同治に改められた。曾国藩・李鴻章・左宗棠・僧格林沁・席宝田らによって太平天国・捻軍・貴州の苗・陝甘や雲南の回民の乱が次々に平定され、同文館の設立や火輪船の製造、蒲安臣の派遣など洋務も進んだ。内では丁宝楨が太監の安得海を誅し、円明園修復をめぐって沈淮・游百川が諍い、李光昭の詐欺で工事は停止された。同治十二年(1873年)に帝は親政したが、翌年疱瘡で崩じ、四歳の載湉が迎えられて光緒と改元、垂簾聴政が続いた。
年表(14件)
- 文宗
- 咸豊十一年(1861年)文宗が熱河で崩じ、載垣・端華・粛順が誅されて両宮皇太后が垂簾聴政する
- 穆宗
- 同治元年(1862年)外洋の船砲購入が許され、長江水師提督を新設して蕪湖に駐紮させる
- 同治二年(1863年)京師に同文館を設立し、蘇州・松江・太倉三属の賦額を減ずる
- 同治三年(1864年)金陵が克復され、曾国藩らに侯伯子男の封が下る
- 同治四年(1865年)僧格林沁が曹州で敗死し、左宗棠が太平天国の残衆を嘉応州で殲滅する
- 同治五年(1866年)左宗棠の奏請で福建に火輪船製造の工場を設け、沈葆楨に船政を総管させる
- 同治六年(1867年)倭仁が同文館を排し、蒲安臣を各国に派遣、東捻が蕩平される
- 同治七年(1868年)西捻が蕩平され、曾国藩を直隷総督、馬新貽を両江総督とする
- 同治八年(1869年)山東巡撫の丁宝楨が太監の安得海を捕らえて市に棄てる
- 同治九年(1870年)両江総督の馬新貽が張文祥に刺殺され、曾国藩が両江、李鴻章が直隷に転ずる
- 同治十年(1871年)馮子材にベトナムの匪徒曽亜治の剿討を命じ、永定河がたびたび決壊する
- 同治十一年(1872年)曾国藩が卒し、貴州の苗が平らぎ、阿魯特氏を皇后に立てる
- 同治十二年(1873年)帝が親政し、六か国の使節が紫光閣で謁見、円明園修復の諫言が退けられる
- 同治十三年(1874年)李光昭の詐欺で園工を停め、帝が崩じて四歳の載湉が大統を承ける
この範囲の現代語訳全文について
この範囲の訳文は、Kindle版『現代語訳 清史紀事本末 3 同治〜光緒前期』として刊行しています。Kindle独占配信(KDPセレクト)の契約により、当サイトでは全文を掲載していません。Kindle Unlimitedの対象です。
修正履歴
- 第1.0版(2026-09-27) 初版